昭和42年9月17日  朝の御理解
                            



 欲しいままに、大変な表現ですけれども、神様のお心を自由にするという、神様の愛を一心にと、よく申しますですね、本当に世の中に私ほど幸せな者はなかろうと思いますと、本当に私のような幸せのような者はないと思うというような頂き方、ね、私一人のために天地の親神様が私を守っておって下さる、私を愛して下さる。そういう気持ちがいつも持ち続けられるという事、特別に何か自分の思う事が成就するとか、子供なら子供が親孝行をしてくれるとか、主人がやさしくしてくれるとか、そういう時だけ、私は本当にこの世で一番幸せものを感じるのではなくて、いつも、そういう幸せを感じれれるおかげ、そういうおかげを頂くことこそ、私は信心の最高のおかげであり、最高の喜びであると思うのです。
みなさんでも時々それは感じられる事があるでしょう、まあ、いろいろ考えてみてください、私ぐらい幸せなものはないと思う、世の中には、その、かと思うとその同じ口の下でです、私のごたる不幸せなものはおらんと、本当に私はこの世で一番貧乏くじをひいておるように、いうかと思うと、人間の心の中にそういう風に思う時やっぱり実感としてあるんですけれども、信心させて頂いておったらです、本当に私のように幸せな者はおるまいと、それはお金がなかっても、不健康であっても、どのような悪条件の中にあっても私のような幸せなものはおるまいと思えれる信心、思えれるようになるということ、それは信心です。そういう心に神様のおかげは嫌が上にも頂けれるのです。
教祖の神様が教えて下さる御教えの中に、真の道の心得というのがございます、真の道の心得の第一番に、今は影がうすうなったような御教えの中にこういう御教えがございます、神国の人に生まれて神と皇上との大恩を知らぬこと、神国の人に生まれて神と皇上との大恩を知らぬこと、日本は昔神国と申しておりました、戦時中まではそうでしたですね、日本は神国だと、だから、決して戦争には負けないといったような事を、ね、神と上というのは、神とは神様の神が書いてあります、次のかみは皇、いわゆる、天皇陛下のことですね、皇上(こうじょう)と書いてある。
ですから、これは戦争が負けたからとか、戦争が終わったから途端に神国でなくなったということになるのです。確かに、いわば、日本だけじゃありません、アメリカだって、ロシアだって、シナだって、中国、中華人国だって、みんなそうなんです、神の国なんです、神様が御守護下さるのです、人間が住むところ一切がそうなんです、いわゆる、神国に生まれておるのです。
神と皇上という事は社会の恩だとこう思います。の大恩を知らぬ事とこう、私達がこうやって日にちお生かしのおかげを頂いておると、そして、こうやって、日にち平穏無事に過されるという事は、確かに神と皇上とのおかげであります、ね、社会の恩というもの、神様の御恩徳の中にあればこそ、私どもがこうやって日にちおかげを蒙っておるのです。
お互いが不自由になって見ないとそこんところが分かりません、世の中があざむように乱れる、そこに途端に国民の苦しみがある、こうしておしめりがございました、本当にこげんし雨が欲しいとみんなが願っておるのでございますけれども、さぁー天地の事はいかんともすることはできません。
昨日、お参りして見えた方が小さい赤ちゃんをおんぶしてから参って来ておられる、娘さんが熊本へ嫁に行っておられる、私はどこの赤ちゃんだろうかと思ったところが、娘の、娘さんが来てあると思っておったら、赤ちゃんだけをこっちへよこして、まーだほんとの乳飲み子である。まだ二、三カ月ぐらいでしょう、それが今はみんな少しいたもんですから、お母さんがいなくても、良い訳なんですけれどですね、その理由がどういうことかというとですね、もちろん熊本全部がそうでございますまいですけれども、その娘さんが嫁に行っておられるところは、おしめを洗う水がないっち、ね、ですから、毎日おしめりをたくさん洗わんのに、困るからこちらの里のほうへ赤ちゃんを預けておるち、理由はそれなんです、してみるとですね、雨が降らんとか、水がないとかと言いながらも、お互いが水をふんだんに、まあ、十分に使わせて頂いておるということ、それだけでも素晴らしいおかげですよね。
神と皇上との恩と、いわゆる、神の恩ということは天地の恩という事でしょう、ね、その天地の大恩という事が本当に分からせてもらうという事、分からせて頂いて、もう、その天地の御恩徳の中に生かされておるというだけでもです、私ほど幸せな者はおるまいと実をいうたら思わなければ罰をかぶるという感じがいたします。ね、水のことだけではありません、もう、それこそ、すべてのことの上にです、お守りを頂き、御守護を受けておるのでございます。それに、私共は不平を言う、不足を言う、それでは、いわば、おかげの頂きようがありません、ね。
良く申しますですね、皆さんはどうでしょうか、女は男に素顔を見せてはならないと、これは夫婦の、いわゆる、愛情問題なんかは必ずですね、もうどちらかが嫌気がさして来るところから、その、問題が起きて来るのですよ、ね、主人、男は女のために、女は男のために、ね、特にその、いわば、女の人は男に素顔を見せてはならんと昔の人は申しました、ね、というよううにです、そこに主人、男の愛を自分の身一つに集めるためにはそのぐらいな精進が必要だという事なんです、ね。
天地の親神様のですね、特別の愛を自分の身一つに、いわゆる、私のような幸せな者はまたとあるまいと思えれる事の私は心の状態というものをです、頂くために、それこそ、神様に素顔を見せてはならんという感じが致します、いつも心が磨かれる、いつもその上に化粧がしてある、それを私は有り難いという心、喜びの心、いわゆる、感謝の心だとこう思うのです。ね。
いつもニコニコと、しておれれる内容なんです、本当に私のような幸せな者はおるまいと、思われるようなその心をいよいよ育ててまいりました、私のような不幸せなものはおるまいというような事になってこないようにです、精進させてもらうことです、それには私共がよくよく考えて、いわば、社会の恩を思い、神様の恩を思う時にです、本当に恵まれておる私達という事を思わせてもらう時に、そこに多少の困った事、難儀な問題がありましてもです、その喜びをもってするともう実に影の本当に小さい事なんです、その小さい事だけを私共が悔い病んで、私は不幸せだとこう思う心、そういう私のように不幸せな者がとこう優越な顔をしておる者が愛されるはずがありません、ね。
甘木の親先生がある病気のお願いにまいってきた人に話されたという話がございます、胃が悪い、ね、本当に私のような不幸せな者はないようにいうて、その、まあ、難儀を訴えてきた、そん時に甘木の親先生が仰っておられる事はです、あなたは胃が悪いだけでしょうと、はい胃が悪うございます、なら他のところはどうなかねち、はぁー他のところはとても元気であります、そんなら他のどんなかところばお礼をいわじゃこてと仰ったそうです、ね。
世の中には今はまだまだたくさんでしょうけれども、昔から四百四病とこういう、四百四つも病気がある時にはもうとてもそんな事をいいますまいね、そんなにたくさんの病気がある中にあんたは胃病という、胃が悪いというだけ、どこもここもこんなおかげを受けておる、手も動いておる目も見えておる、ね、してみるとその悪いところだけ、天地の親神様のお恵みによって、おかげによってから生かされて生きておるというところが分かってから、私はそこを分からせてもらう、天地の親神様のおかげを頂いてから、おかげで手も動いております、目も見ておりますという事、ただ、胃が悪いという事だけを難儀と感じ、不平不足と思うておるというようなことではいけません、頂いておるもの、恵まれておるものに対して、心からお礼を申し上げる心になりゃ胃のほうはようなると仰ったそうです。
結局お礼不足なんです、ね、天地の親神様の、いわゆる、神の恩と、皇上の恩、社会の恩、神様の御恩というものを私共が分からせてもらう、そこから私共の感じておった難儀というものは小さいものになっていく、しかも小さいものが段々なくなって、ね、このぐらいな事はということになってきた、お礼を申し上げることが大きくなってくる、ね、そこに、私は、素顔を見せんというかね、神様の前にはいつもにこやかにお礼を申し上げられておるという人の上に嫌が上にも神様の愛を私の心、私の身一つに集めることができるだろうと、ね。
いつも自分というものを不幸せなところにおきたい人がある、そして、みんなに同情を買いたいという人がある、いつも一口のって、どこか皮肉をいわなければすまんという人がある、そういう人は神様に愛されません、ね、本当に有り難い有り難いと、ね、もう本当に分からせてもらえれば分からせてもらうほど、もうそういうおかげの中に私共はあるのですけれどもです、あー税金が高いのう、なんだと、もう自分が不幸せの社会のためにしてしまう、そげなん事ではいつまでたっても私は幸せになれないと思うんです。
この方の道は喜びで開けた道じゃから喜びでは苦労させんと仰る、ね、本当に喜ばせて頂こうという気持ちにならせていただくためにまず本気で信心させてもらわないと行けん。
人間は万物の霊長であるから万物を見て道理に合う信心を、ね、道理に合う信心をさせて頂きよりますとです、そういう、私は理屈が分かるというだけじゃなくてです、本当に有り難いということが分かってくる、不平だんいいおったっちゃ勿体ないと、不足どん言いよったっちゃ駄目だと、ね、人が不足を言いよる、不平を言いよるならその人になり変ってお詫びをするような心が生まれてくる、ね、そこに私はおかげの頂けれる、いわゆる、おかげ受けられる嫌がおの上にも頂けれるおかげというもの。そういうおかげを頂きたいと私は思うのです。
昨日、ある方がお参りをして、まあ、大変な財産家です、嫁さんが(     )きております、先日からお母さんが亡くなられた、お母さんの遺言で娘に二百万円お金をやってくれとですね、遺言しちゃった、それでそのおじいさんが昨日、一昨日、敬老の日に、その、娘の家にやってきたからです、ばばがこうやって遺言をしておるから二百万円をもらってくれてこういわれた、それで、夫婦の者がどういう事をいうておるかというとですね、本当におばあちゃんの気持ちは有り難い、おじいちゃんがそれを私共に下さる事も有り難いのけれどもです、私達がこうやっておかげでどうやらこうやらでやって行きよるから、ね、まだ兄弟の中には私達よりも大変な難儀をしておる人達がある、ね、だから、そっちの方にまわしてくれと、私はもらわんちいうて断ったっち。
そして、その事を神様に夫婦でお礼を申し上げさせて頂きよったらですね、夫婦の者が、いわゆる、その、感激してですね、神様の前で泣にゃんおられんほどの有り難いものを感じたとこういう、ね、今頃、金の二百万円といいややっぱり大金です、しかも、それをもろうてくれてというのをいらんとこういう、自分よりももっと不幸せなものがあると、兄弟の中に、兄弟がたくさんある、自分たちはこうやっておかげを頂いておるのであるから、自分たちはいらん、いわゆる、おばあちゃんは私たちの事を安心しておられる、それは、割り当てであろうけれども、私たちはこれはもらわんとこういう、だから、他に難儀をしておる兄弟たちにやってくれとこういう、そう言えれるという事がです、いわゆる、まあ、今日の御理解からいうとです、神様の御恩徳をだんだん分からせて頂くようになりましたら、ね、そういう必要がなくなってきた、ね、その事を神様にお礼申しさせて頂きよったら夫婦の者が本当に感泣しなければおられない、いらんというて有り難かった、それはそのままその夫婦のお喜びではなかったろう、神様のお喜びであったろうとこう思うのです。そういう氏子の上にもです、神様は嫌がおの上にもお恵みを下さると思います。その心根が美しい、もう本当に化粧をしておる上にも化粧をしておるというような感じ、日ごろの信心がそういう時に夫婦の上に現われておる、ね。
お互いがですね、本当に神様の大恩を分からせてもらうとですね、そういう有り難い心も段々頂けてくるようになってくるのですよ。ね。

(途中切れ)